2024.9.29 ルカの福音書7章11-17節
今日の聖書箇所は、具体的な内容はともかく、比較的単純な話です。ひとりの青年が亡くなり、その棺が墓に向かって行く。母親は泣きながら一緒に歩いて行くが、そこにイエス・キリストが出会い、その青年を生き返らせて、母親に返してやる。といった話です。この箇所から大きく二つの事を考えたいと思います。
(1)泣かなくてもよい
まず、11-12節を見てみましょう。
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
やもめとなった母親、とあるので、彼女はすでに夫に先立たれていました。それから、女手一つで立派な若者に育て上げた。しかし、何と、今度はその唯一頼みとしていた、一人息子を、病でしょうか、失くしてしまいました。もう失望落胆、悲しみの極みに達し、泣きながら、その棺の前を歩いている母親。それを、イエスさまはご覧になりました。そして、13節
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
この母親は、ただただ悲しいだけであった! 目の前に現れたキリストに救いを求める心の余裕もなかった。心はただ悲しみ以外に何もなかった! 母親の悲しみは、人が何を言っても耳に入らない、誰がそこにいるのかもわからない。ただ、愛する者がいなくなった、愛する者が、無残にも死に奪われたという、ただ暗澹たる悲しみ、それだけがこの母親のすべてであったのです。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」マタイ5:4
「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」ルカ6:21
そのような母親を見て、イエスさまは「かわいそうに」思われました。これは、私たちが単に「ああ、かわいそうだな」という思いではなく、ここでの「かわいそうに思い」、という言葉は、他の聖書では「深い同情を寄せられ」「深くあわれみ」「あわれに思い」などと表現され、直訳では「内臓まで動かされる」とあります。これは、はらわたが千切れるほどの痛みを覚えて「あわれに思う」なのです。まさに、イエスさまが、いかにあわれみ深いお方であるかがわかります。 そのあわれみの心が、もうやむにやまれず、その母親に近づいて、声をかけらました。 「泣かなくてもよい」、「もう泣かなくともよい」このイエスさまの言葉は、私たちが心からかわいそうに思って、寄り添って「もう、泣かないで」といった、単なる慰めの言葉ではないのです。 イエスさまが「泣くな」と言われる時には、泣かなくてもいいようにしてやるから、泣くな、とおっしゃっているのです。
人間はただ言葉で慰めることしかできません。だから、色々なことを言って、慰め、その悲しみを紛らわせようとします。 けれどもイエスさまは、悲しみのどん底にいる者の、その悲しみのすべてを取り去ってくださるお方なのです。 これがイエスさまの「泣かなくてもよい」なのです。
(2)「我なんぢに言ふ、起きよ」
「泣かなくてもよい」そう言った後で イエスさまは、14節
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。
自分の方から近づかれて、この悲しみの中に入って行き、棺に手をかけられ、かついでいた人たちを立ち止まらせました! 葬列ですからこれから墓に納めに行く。 墓、それは、真っ暗な、希望のない場所、不幸を象徴している場所と言ってもよい場所。そこに向かっていた棺が、イエスさまの手に触れて止まりました。 暗黒の世界に向かう、その歩みはここで止められたのです。息子は死んで棺に入れられ、墓に運ばれていく、悲しい状況です。
しかし聖書は、私たちはみんな霊的には死んでいた者だ、と語ります。 エペソ人への手紙2章5節
罪過の中に死んでいたこの私たち・・・
「罪の中に死んでいた私たち」とあります。罪の中に生まれ、神から離れて歩いて行く人生は、霊的に死んだ者、命を失っている者だというのです。 ですから、その行く先は永遠の墓場、永遠の滅びなのです。ただ肉体の死、その死体が運ばれていく墓、それがただ悲しい、恐ろしい場所ではないのです。もっと恐ろしい墓場、永遠の魂の行き着く所、永遠の滅び、世に言われる地獄こそが最も恐ろしい所なのです!
しかし、イエス・キリストはこのような人生の墓場から、真っ暗な永遠の滅びの中に向かっていた私たち人間を救うために、父なる神から遣わされて来てくださったのです。 ゆえに、イエス・キリストを信じる者は、だれでも永遠の命を頂く特権が与えるのです!
今、この悲しき棺に、真っ暗な墓場に向かいつつあったこの棺に、イエスさまの手は触れました。その時、その歩みはとどめられました。
今日、なおも滅びの道を、恐るべき死への道をたどりつつある人が、イエス・キリストの言葉に触れるなら、手に触れるなら、その歩みはとどめられ、新しい命のへの歩みが始まるのです。
「近寄って棺に手をかけられると」、 何と素晴らしい一瞬でしょうか。
人の歩みはここに一変するのです。キリストの手は、悲しむ者、弱さの中にある者、行き詰まっている者、途方にくれる者、そういう者の上に置かれるのです。
「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので」、次の瞬間、この青年に、死人に「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。 文語訳では
「我なんぢに言ふ、起きよ」
となっています。青年よ、わたしが君に言うのだ、ほかの誰でもない、人の願いではない、人の言葉ではない、神のひとり子、天地万物の創造者、命の源であるイエス・キリスト、このわたしがあなたに言う、と言われたのです。 これはなんと力ある言葉ではないでしょうか。
(3)起きよ。光りを放て
さあみなさん、ここからが今日、最もお伝えしたいメッセージです!
一対一で、神の子キリストが、あなたに対して、あなたの名を呼んで、「〇〇よ、わたしが言う、起きなさい!」 たとえば「木村勉よ、わたしが言う、起きなさい!」と言っておられるのです。 みなさん一人一人に「〇〇よ、わたしが言う、起きなさい!」と語られているのです!
この言葉をどう受け取られますか? 私は、みなさんが今、どんな状態、どんな状況に置かれているのかは、わかりません。 しかし、今日、主はすべての方に対して、「わたしが言う、起きなさい!」
「いつまで同じ所にとどまっているのだ、起きて、立ち上がって、歩み出せ!」と語りかけているのではないでしょうか? へブル人への手紙11章6節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」
とあります。信仰とは、語られた言葉を信じて、従うことなのです! イザヤ書60章1節
「起きよ。光りを放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
主の栄光があなたの上に輝いている、と言うのです!
聖霊の助けを頂きながら、神に喜ばれる歩みをしていきましょう。